学生運動終焉期にエスカレートした“内ゲバ”の嵐
革命を志した若者たちはなぜ殺しあわなければならなかったのか?
これまでほとんど語られてこなかった「内ゲバ」の真相に、当事者の視点から切り込んだ書籍『彼は早稲田で死んだ』(著:樋田毅/文藝春秋)との出会いから本作の製作は始まった。1972年当時若者だった、現在は70代前後の当事者たちの貴重な証言が積み重ねられていく一方で、「内ゲバとは何だったのか?」という大きな疑問がひろがってゆく。その疑問を現代に手繰り寄せるために、川口くん事件を再現する短編劇パートも製作。演出は、学生運動を題材にした演劇を数多く発表してきた鴻上尚史、そして演じるのは今まさに生きている20代の若者たち。約50年を経て交差する記憶とアクションによって、その大きな疑問の答えにたどり着けるのか。
監督は、『三里塚に生きる』『三里塚のイカロス』『きみが死んだあとで』で、新左翼闘争が渦巻いた“あの時代”を描き続けてきた代島治彦。徐々に過去の歴史になりつつある時代の記憶と体験を、四たびドキュメンタリー映画に凝縮した。音楽は、代島監督作品には欠かせない大友良英が担当。激情と悔恨が織り混ざった楽曲が、本作全体を覆う暴力と無力感、そして相反する鎮魂のイメージが奏でられる。「内ゲバ」を巡る不条理と、“あの時代”の熱量と悔恨を、立体的な手法で刻印したミクスチャーなドキュメンタリー映画がここに誕生した。
事件概要とその影響
1972年11月9日早朝、東京大学医学部附属病院前で、パジャマ姿の若い男性の遺体が発見された。遺体は全身殴打され、アザだらけで骨折した腕から骨が出ていた。被害者は当時、早稲田大学第一文学部の学生である川口大三郎(当時20歳)。
11月9日昼過ぎ、革マル派が声明を発表し「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆する内容の声明を発表した。これにより、川口は内ゲバによって殺されたことが判明。
前日の11月8日14時頃、川口を中核派のシンパとみなした革マル派活動家たちが、川口を早稲田大学文学部キャンパスの学生自治会室に拉致。約8時間にわたるリンチを加えて殺害し、その後川口の遺体を東大構内・東大付属病院前に遺棄した。死因は「丸太や角材の強打によるショック死」で「体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった」という凄惨なものだった。 被害者の川口大三郎は、1952年(昭和27年)静岡県伊東市生まれ。1971年4月に早稲田大学第一文学部に入学。川口は当時から学生運動や部落解放運動などに参加していたが、実際には中核派とはほとんど関係がなかった。
早稲田大学では、革マル派および革マル派と癒着する早稲田大学当局へ批判が強まり、一般学生たちによる数百人から数千人規模の革マル派糾弾・抗議集会が連日続いた。1972年11月28日、第一文学部学生大会を皮切りに各学部で学生大会が行われ、革マル派自治会執行部がリコールされ、自治会再建をめざす臨時執行部が選出された。
しかし、新しく選出された臨時執行部はさまざまな学生たちが混在し、武装による対抗か非暴力闘争か、内部の意見対立が起きた。その対立が表面化する中で、執行部への革マル派による襲撃が発生。 このあたりから、革マル派と、他大学を拠点とする中核派や社青同解放派など他セクトとの内ゲバは、互いの組織壊滅を目的とした凄惨な「殺し合い」へとエスカレートしていき、血で血を洗うこれらの内ゲバは学生運動を弱体化させ、一般市民が新左翼から離れてゆく大きな原因の一つとなった。川口大三郎リンチ殺人事件への糾弾運動はセクトの暴力反対から出発したが、結果的にセクトの暴力、内ゲバをいっそう激化させることになった。