終戦の2週間前に発生した長岡空襲では、1400人以上の尊い命が奪われました。語り部として戦争の記憶を伝える人も年々少なくなる中、91歳の女性が現役で活動を続けています。戦争を語り継ぐ意味や平和への思いを聞きました。
長岡市にある戦災資料館。長岡の街を焼野原にした焼夷弾や当時の写真など、戦争の記憶を伝える品々が展示されています。
池田ミヤ子さん、91歳。4年前から語り部として自身の経験を伝えています。ミヤ子さんは12歳の時、長岡空襲に遭い、姉の壽美子(すみこ)さんを亡くしました。
■池田ミヤ子さん
「この人の隣。この着物の人の隣。東京の土産を持って帰ってくる優しい、家の中がパッと明るくなるような姉でした。」
1945年8月1日午後10時26分。無数の焼夷弾が長岡の街に降り注ぎました。1つの焼夷弾から分解した子弾の数は16万3000発。1488人が亡くなり、市街地の8割が焼失しました。
4人兄弟の末っ子だったミヤ子さん。東京に住んでいた姉の壽美子さんは東京大空襲から逃れ、5月に長岡に帰ってきたばかりでした。
■池田ミヤ子さん
「姉(壽美子さん)が防空壕のすぐ近くで『節子(2番目の姉)、ミヤ子、出ていらっしゃい』と叫び、私と姉(節子さん)は畳を持ち上げて外にはい出した。その時、姉(壽美子さん)は倒れていた。」
町に火の手が上がる中で懸命に消火作業にあたっていたという壽美子さん。かけつけた母親が呼びかけたものの、動かなかったといいます。
■池田ミヤ子さん
「布団の中でおしゃべりしていたのが、1時間もしないうちにものを言わぬ人になった。姉を置いたまま逃げる両親はつらかったと思う。」
火が勢いを増す中、倒れた壽美子さんを置いたまま近くの田んぼに逃げたミヤ子さん一家。そこでは、さらに壮絶な状況を目にします。
■池田ミヤ子さん
「仲良しの子とその母親の2人がヤケドして、草むらに横になっているのが見えた。元気だった母親が破傷風になって亡くなった。」
翌日、壽美子さんの遺体を運びましたが火葬場に空きがなく、両親がミヤ子さんのいないところで遺体を焼いたといいます。
■池田ミヤ子さん
「私に壽美子さんの遺体を焼くところを見せたくなかったんだと思う。両親も姉(節子さん)も、壽美子さんの遺体を焼いたときの話をしなかった。それだけつらかったんだろうと思う。」
空襲から2週間後、8月15日に終戦を迎えました。焼けた長岡の街を見て愕然としたといいます。
■池田ミヤ子さん
「家から大手通りの長岡駅まで見晴らしがついた。何もなくなっているなと思った。」
ミヤ子さんは、語り部として戦災資料館を訪れた人に空襲の時の様子を話しています。
■池田ミヤ子さん
「平潟神社の大きな防空壕に入った人が全員亡くなっている。(Q.全員?)はい。蒸し焼き状態。いっぱいで入れないからと断られた人が幸運にも助かっている。」
■来館した人
「本当に起こったことを、もっと今の子供たちが学校で教えてもらったら、長岡花火を見ても思うことが違ってくる。(自分も)忘れてはいけない。」
元々は人前で話すのが苦手だというミヤ子さん。しかし、今は県内の小中学校も精力的に回り、経験を話しています。背中を押したのは、長岡空襲の記憶の継承に力を尽くした同級生の死でした。
金子登美さん。自身の長岡空襲の経験を長年語り部として伝え続けてきましたが、3年前に87歳で亡くなりました。金子さんとは、女学校時代の同級生でした。
■池田ミヤ子さん
「私らはずっと仲良くして、立派なのは百も承知だし、金子さんみたいに上手にしゃべれないのも百も承知だから自分なりにやっている。」
長岡空襲の語り部は、現在8人、平均年齢は87.8歳です。語り部の高齢化が進む中、戦争を知らない世代にどのように伝えていくかが課題となっています。
8月1日、長岡空襲の日に開かれた平和祈念式典。ミヤ子さんは、地元の小中学生ら780人を前に空襲の経験を語りました。
■池田ミヤ子さん
「上空でB29からバタバタと焼夷弾が落ちてくるのが見えた。罪のない人たちが命を失ってしまう。これほどむごいことはない。」
そして、空襲を経験していない中学生がこれからの平和を誓いました。
■長岡市立東中学校3年 船山遙花さん
「戦争を遠いことだとは思わず、目を背けないことで平和の砦を心のうちに気づくことができるのではないかと考える。」
ロシアによる軍事侵攻やイスラエル・パレスチナ情勢など世界では緊迫した状況が続いています。ミヤ子さんも、中学生と同じように平和であることを願っています。
■池田ミヤ子さん
「今また世界がちょっと危なっかしくなっている。戦争や原子爆弾がやっぱり心配。生きてるうちに戦争にならなければいいが。」
2024年8月15日放送時点の情報です。
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