(1)プ ロ ロ ー グ
*五反田駅 列車が入線する
*駅階段に掲示の書籍広告
令和5年JR五反田駅ホームの階段で、人目を引く書籍の広告が掲示されていました。
「世界は五反田から始まった」・・・。
*出版元ゲンロン
代表取締役 上田洋子さん
「五反田の書店で年間売上一位となり、ノンフィク
ション作品としては異例なことだと思う。」
*祖父の写真と書籍「世界は五反田から始まった」
この本は著者の星野博美さんの家族史と戦争を挟んだ五反田の地域史を等身大の視線で描いた作品で、
第49回大佛次郎賞を受賞しました。
*星野博美さん
「(五反田も)少し掘り下げれば色々な歴史が隠されていることを感じてもらえたようで、反響は大きかっ
た。」
*写真集「ホンコンフラワー」
写真集の中の一枚が、「転がる香港に苔は生えない」の表紙に変化する
当初写真家としてプロデビューした星野さん。
執筆にも創作活動を広げ、ノンフィクション作家として
独自のスタンスを築いていきます。
「時間をかけてスコップ1本で掘り起こそうというのが、
基本の仕事の仕方です。」
*目黒川紅葉 星野さんが佇む
市井に向けた眼差しで執筆を続ける星野博美さん。
今回は足跡を辿りながら、ノンフィクション作家の矜持に迫ります。
*「『世界は五反田から始まった』ノンフィクション作家 星野博美」
(2) 町工場の娘として誕生
*池上線列車が来る
*幼少期の星野さん
星野さんは昭和41年戸越銀座のすぐ近くバルブ加工の町工場で生まれました。
*星野製作所看板
*遊ぶ星野さん
星野「小学校から帰ると工場に行ってお手伝いをするけど、金属部品を古新聞に包んで箱に詰めたりした。」
以前星野さんを取材した平成24年も、そして令和の現在でも、小さい頃遊んだ細い路地がまだ残されています。
「今はコンクリート敷きになっているが、昔は板敷きだった。雨が降ると板だから滑るし、穴が開いたり隙間があったりして時々子供が落ちて泣きわめくという世界でした。」
(3) 返還を挟み2年間香港での生活
*学生時代の語学留学の頃 Na.大学時代交換留学生として過ごした香港。
その後平成9年、星野さんは香港返還を挟む2年間、揺れ
動く香港で時代の変わり目と向き合いました。
「(返還前は)皆不安の様子でした。喜んでいる人は誰もない。」
こうした中で星野さんは人々のさりげない日常にレンズ
を向けながら、日常の出来事や想いを詳細にノートに書き残していきました。
こうして迎えた返還時、星野さんは創作者としての立ち位
置を心に刻み込んだといいます。
「(大手マスコミ取材陣が)大挙して入ってきてブルトーザーのような取材をして、
(返還後)波が引くように帰っていった。自分は逆に時間をかけてスコップ1 本で掘り
起こそうと思った。それが今も続けている基本の仕事の仕方です。」
*二つの作品
香港での体験は写真集とノンフィクション作品として実を結びました。
*「転がる~」書籍と星野さん
この著作は第32回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し
て、この頃から執筆活動に軸足を移していきます。
(4)祖父の手記に導かれて
実家を19年近く離れていた星野さんは平成19年この街に戻ってきました。
*自分のルーツを辿る2冊の著作
Na.星野さんは実家での暮らしの中で、自らのルーツを追い
めた2冊の著作を発表していきます。
どちらも祖父が遺した手記に導かれた作品です。
*晩年の祖父
「私が小さい頃祖父が何かを書いていたことを覚えていたの
で、20代の頃父に聞いて出してもらった。文筆業に携わってい
いる私が受け継いだ。解読にはかなり時間がかかった。」
*「コンニャク屋」目次
「コンニャク屋漂流記」では、千葉の漁師であった星野家
が品川区と関りをもったいきさつを辿っています。
*大正12年祖父
大正5年祖父の量太郎さんは、13歳で現在の港区白金の町工場
に弟子入りし、昭和2年現在の東五反田で独立します。
*大正時代の工場
大正時代から目黒川流域の五反田・大﨑界隈は、数多くの工場
昭和10年西五反田が建ち、その周りに下請けの町工場が乱立していました。
*東五反田を歩く星野さん
平成24年祖父の町工場創業地の東五反田を案内していただきました。
*細い路地
祖父のゆかりのこの地にも、戸越銀座と良く似た細い路地が連なっていました。
「ここが祖父のスタート地点と思うと故郷がひとつふえた感じがします。」
*本と祖父
「コンニャク屋漂流記」は、ノンフィクション作家として新たな一歩を踏み出したことで高い評価を受けました。
「あの作品をきっかけにより地元に対する愛着がわきました。」
(5)五反田を深堀した著作「世界は五反田から始まった」
*五反田駅東口
コロナ禍の時期に執筆を始めていた「世界は五反田から始まった」。
「ほぼ地元に張り付いた生活になった時に、五反田の歴史に興味を持った。」
前作の家族史を地域史まで視点を広げ、デジタル上での連載を書籍化した著作です。
*ゲンロンカフェの星野さん
連載のきっかけは、五反田が拠点の出版社ゲンロン主催のイベントの出会いからでした。
*ゲンロン代表取締役
上田洋子さん
「五反田愛を語っている星野さんにいろいろ書いてほしいとお
願いした。庶民の目線をやさしく表現する星野さんは稀有な作家
だと思う。」
*目次 第1章
「大五反田」 第1章で語られる大五反田。星野さんは、五反田駅を中心にした
円のエリアを「大五反田」と名付け、星野家の生活圏として描いています。
*大五反田地図
星野「この円は祖父が選んだ五反田の人生です。同時に私の故郷の概念です。」
(6)祖父の足跡を訪ねる
*大五反田地図 足跡が表示される
祖父量太郎さんは、大正5年現在の港区白金で弟子入り、昭和2年に東五反田5丁目で独立、
そして手狭となった昭和7年目黒川に近い現在の大崎5丁目に移転、
さらに昭和11年戸越銀座に移り居を構えました。
*目黒川紅葉・2番目の移転の地を訪ねる星野さん
星野さんは2番目の町工場移転先の地に足を運びます。
*マンション
かつては多くの町工場があっただろうこの場所は、マンションなど
の建造物に様変わりしています。
*かつて町工場があった場所
「私しか盛り上がらない聖地ですが、私の日常範囲の中に祖父の
足跡が残されているのは感慨深い。故郷という感じがする。」
(7)軍需産業に貢献した町工場の役割・城南大空襲
*目次 第2章「軍需工場」
星野さんは著書の中で戦争の影が色濃くなってきた頃から、町工場
が巻き込まれた軍需面での役割について触れています。
*祖父と父英男
「祖父の町工場は末端で大きな工場から発注を受けて造る。その
大きな工場が軍の統制下に入って軍のものを造るので、同じ製品を
造り続けていても、軍事産業の末端にいたことになる。その仕組み
が町工場の娘なりによく分かったことは収穫だった。」
*目次 第6章「焼け野原」
昭和20年5月24日、多くの軍需産業下請けの町工場があった大
*焼失した荏原
五反田界隈は米軍の大空襲を受けて、星野製作所は焼失しました。
*焼け野原の戸越公園駅
*祖父
いち早く量太郎さんは埼玉に工場を移し復興を目指しました。
*星野さん
戦争は終わっていなくても、素早く復興に向け動いたという事実を
星野さんは手記の最後で知って、たくましく生きた祖父に活を入れら
れた気がしたと記しています。
*父英男さん
戦後戸越銀座に戻り、工場(こうば)は父親の英男さんが二代目となって受け
継ぎ、量太郎さんは昭和49年に亡くなります。
*祖父
*バルブ製品 Na.星野製作所は平成9年工場を閉鎖、その後父親は仲介の仕事を続
けましたが、令和3年94年続いた家業に終止符を打ちました。
*製作所看板
(8)エ ピ ロ ー グ
*モンゴル取材の星野さん
星野さんは現在、モンゴル、キルギスなどに関心が向かっているといいます。
「(執筆のスタンスは)誰もが見ているものを自分も見ていて、自分
なりの視点を見つけ出し伝え書くことです。」
*目黒川に佇む星野さん
市井に向ける眼差しを磨き執筆を続けている星野さん。
新たな作品が待たれます。