太平洋戦争末期の1945年8月、アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下した。その年だけで20万人以上の命を奪った原爆は、人類史上最悪の「悪魔の兵器」といわれた。世界で唯一の被爆国となった日本だが、実は戦時中、原爆開発を進めていた。しかし、日本の開発は初期段階で大きな壁にぶちあたった。原爆の原料となる「ウラン」の確保だ。福島県石川町にあったウラン鉱石の採掘場に動員されたのは当時まだ中学生の少年たちだった。軍人たちは「マッチ箱1つの大きさで都市を破壊できる」と檄を飛ばし、少年たちは期待を膨らませた。当時15歳で作業にあたった吉田秀忠さんは79年前を振り返り、うつむきながら、呟いた。「虚しい作業に…奉仕させられたということだけです」。
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ノモンハン戦争で34歳の父が戦死、長男として農作業の日々
今も自ら畑に足を運び、カボチャなどの野菜を作っている。夏の炎天下、肌着は汗でびしょ濡れ…年季の入った帽子を被り黙々と作業をしていた。福島県平田村に住む吉田秀忠さんは今年で94歳になった。戦時中も今も「自分たちで食べるものは自分たちで作ってきた」と、しっかりとした口調で話す。
「母子家庭の4人暮らしだったけど、自分たちで作る野菜もあって、少しのコメに大根を細かく刻んで混ぜたり、秋になるとサツマイモ刻んでコメに混ぜたり、そんなごはん多かったです。質素なものでした」。
秀忠さんの父親・都さんは1939年に起きたソ連軍とのノモンハン戦争で34歳の若さで亡くなった。母親のテルさんは肋膜炎(今の結核性胸膜炎)を患っていて、思うように農作業はできなかった。力仕事ができる父親や叔父などがいる家では田んぼでコメが作れたが、秀忠さんたちにはできなかった。その分、長男の秀忠さんは畑仕事に精を出すしかなかった。
蒸気機関車に夢中になった少年 忍び寄る戦争の影
農作業の毎日だったが、秀忠さんには当時、夢中になるものがあったという。それを目の当たりにした時の様子を鮮明に覚えていた。
「農作業が終わって、7歳のころかな、一人で3時間くらい歩いて石川駅に蒸気機関車を見に行ったんだわ、大きくて、すごかったねー、あこがれましたわ」。
1941年、日本は太平洋戦争に突入した。開戦当初は日本軍の勝利が続いたが、秀忠さんが中学生になったころ、戦況は次第に悪化していった。1942年に始まったガダルカナル島の戦いでは、教師を目指していた従兄が戦死したと知らせが入った。
「福島の師範学校に入っていた優秀な人だったのに…本当に惜しい。戦争さえなかったら…」。
少年たちも動員…棒で殴打されることも
1945年4月から、15歳になった秀忠さんを含む約50人が軍需関連の作業に動員されることになった。動員されたのは隣町にある石川山。そこでは、何らかの鉱物を掘り出す作業が行われていた。ツルハシで山の斜面を崩して、岩を砕き、近くの石置き場までモッコを棒につるして、2人で運ぶ。秀忠さんは、石をモッコで運ぶ作業にあたったが、何のための作業なのか見当が付かなかったという。現場では、軍人の幹部らしき人物も頻繁に出入りしていた。ぐずぐずしていると、棒でぶたれることもあった。
「中学生2人1組になって石を運ぶんだけど、2人の力ではびくともしない石があって、時間がかかってると、棒で手の甲を叩かれた。それが腱にあたって、ひどく痛くて…」。
明かされた秘密 採掘していたのは「原爆の原料」
5月ごろ、軍人の幹部らしき人物が、少年たちを集め、目の前に掘り出している鉱石の破片を掲げた。その時のことを秀忠さんは昨日のことのように覚えている。
「内緒の話だけども、ここで掘っているもので、大したものできんだぞと、一生懸命やってくれなって。マッチ箱一つの大きさでそれを高いところから落とせばデカい都市だってやっつけることできんだって」。
秀忠さんたちが採掘していたのは微量のウランが含まれるペグマタイトという岩石だった。後に分かることだが、1943年から日本軍は理化学研究所に依頼し、原子爆弾の開発に着手していた。その原爆の原料となるウランの確保のため、秀忠さんたち中学生も採掘場に動員されていたのだ。戦争で父や従兄を奪われ、農作業も勉強も満足にすることができなかった秀忠さんは、大きな期待を含まらせた。原爆開発には膨大な量のペグマタイトが必要だったが、秀忠さんは毎日朝8時から夕方4時まで、炎天下に空腹で腹を鳴らしながらも懸命に作業に従事したという。
「そういうのできるのは大したもんだなって、いや~すごく期待だけはしていたんですわ。人類の罪なるものができるなんてそんな罪悪感なんて全然持っていませんでした。神国日本は負けたことはねぇそれを信じていたんです。私の父親はすでに戦死して母子家庭だったもんだから余計そういう気持ちが強かったんですね」。
世に知られなかった原爆開発 戦争に敗れ、がく然
しかし、日本の原爆開発は、ウラン分離や濃縮など核開発における基礎的な段階で立ち止まっていた。そして、必要とされるウランの確保には長い時間がかかるとされた。さらに、予算の問題もあった。石川町には、採掘した鉱石が集められ選別される工場の土台の石垣や貯水槽の部分が残っている。貯水槽の壁を支えていたのは鉄筋とは程遠い、針金状のものだ。技術も資材も不足していた日本の原爆開発の実情が、当時、世に知られることはなかった。
戦況が悪化する中、石川山にも米軍の戦闘機が現れるようになった。採掘場は森や林など遮るものがなく、走って近くの雑木林などに逃げるしかなかった。近くの民家が機銃攻撃を受け火事になったこともあり、肩を撃たれた人もいた。秀忠さんたちはそういう恐怖も抱えながら作業にあたった。しかし、その苦労が報われることはなかった。8月6日、9日に広島と長崎に原子爆弾が投下され、15日に日本は降伏した。その日も、秀忠さんたちは採掘作業に当たっていた。敗戦の報せを受けた秀忠さんはがく然としたという。
「結果から言えば虚しい作業に…奉仕させられたということだけですね、虚しい気持ちですわ。石川山であんなことやって本当にな~バカみたいなこと骨折って一生懸命やってたんだなってお国のためだと思ってそういう思いだけでした」。
家族のために中退 閉ざした将来の夢
降伏後、日本には食べるものも少なく、極限の貧しさの中にあった。秀忠さんは農業に専念し家族の食べるものを確保するため、中学を中退することになった。英語の教師が2回も家まで足を運んでくれて、母親を説得しようとした。しかし、母親は首を縦に振らなかった。教師は秀忠さんに対し、「敗戦国になったとはいえ、必ず役に立つ時がくるんだから卒業証書だけはとっておいた方がいい」と常々言ってくれたという。秀忠さんはそのことを今でも嬉しそうに、そして寂しそうに話してくれた。
「あの時、学校を辞めなければ良かったなと思います。少しは今とは違った生き方になったかもしれないって、そんなこと考えます。学校を辞めなかったら鉄道員に、蒸気機関車の運転士になりたかった…。」
今もうなされる 夢の中では「戦争」
秀忠さんはその後、結婚。2人の娘を育て上げ、今も畑で野菜作りに精を出している。ただ、79年前に棒で打たれた右手の甲には今でも炎症を抑える湿布が貼られている。痛みが治まらず、夜、熟睡したことはあまりないという。そして、痛みが激しい夜は戦争の夢を見る。うなされて見た夢の中には、秀忠さんが、異国の地で亡くなった日本兵の遺骨を集めて回るものもあった。多くの日本人が、戦争で命を奪われ、人生を狂わされた。この無念は決して消えるものではない。秀忠さんの脳裏には戦争当時のことが、今も強烈に焼き付いている。
「遺骨の慟哭聞こえるようですよ本当に、みんな一人一人の人生があったはずなのになって」
※この記事は、福島中央テレビとYahoo!ニュースによる共同連携企画です
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